茄子 の 輝き。 滝口悠生 『茄子の輝き』

昨年青幻舎より『father』刊行。

と、そのシーンを観た瞬間に相当な衝撃を受けた。

この連作の特徴に、これが震災以後の文学であることがひとつ挙げられる 「かまち」はデビュー後はじめて書いた短編で、毎日玄関で落語をしているおばあさんの話
片桐の言うように、主人公の「自己同一性」はそのつどの「物語行為」によって「構築」されるのであるからこそ、「記憶」内容がそのつど変ってしまうと論じた方が納得しやすいと思う 落語とか寅さんとかについてばかり書いていたら、若手のわりにどうにも年寄りくさい印象を持たれはじめてしまい、それを刷新すべく、『』という小説を書いた
日記は過去の自分を紙の上に残す なぜ自分から去って行ったのかが、いまだにわからないからだ
ときに震度1の地震でも飛び起きて、外に飛び出す とくに重要なのは、離婚後の日々を明るく照らしてくれた、千絵ちゃんという女性である
しかし、不具合が解消されたとしても、その原因がいつまでたっても明らかにならないとしたら、両岸にあった感情は無傷のままでいられるだろうか 》(片桐雅隆『過去と記憶の』) サトマン君は「物語行為」にも着目していたと思うけど、短篇ごとに「記憶」が異なってしまうような語り口からすれば、語り手(主人公)の「自己の同一性」の在り方こそを問題にすべきではなかったかな
『茄子の輝き』はラストに近づくにつれ、思い出すことから忘れることへとゆっくり焦点が移っていく そこに、無意識が流れていることを見ること
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