「寺社勢力」ともよばれていた延暦寺は、寺でありながら武力も持っていました。
一方の長政にとっては、信長と共闘することで、領土、水運、漁業、商業など莫大な利権が保全されます | 夜の暗い中を高地から平地へ降りてきた両軍は、視界が急に狭くなったため手探りで前進する形になった |
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妹の市を長政と政略結婚させ、姻戚関係も結びました | 姉川の戦いの経緯 当時岐阜を本拠地としていた織田信長 |
その数5000~8000人ほど | それに対する長政も義景の援軍を求め、その数2万1000と数えられている |
これに怒った信長は、1570年(元亀元)4月、朝倉氏がいる越前へ攻め入りました | 朝倉氏と浅井氏は古い同盟関係にあり、長政は信長との親戚関係よりも、朝倉氏との古い絆を選んだのです |
朝倉軍も並木の向こう側にうごめく敵影は見たに違いないが、さしたる人数に見えなかったため、今だとばかり強攻策をとったのかもしれない | 姉川の戦いはどうなったか? 最初は、両軍とも、にらみ合いでしたが、しかけたのは、徳川家康の家臣、徳川四天王のひとり、「 榊原康政」でした |
池田恒興は崩れ立つ味方を励まし励まし戦い、乱戦の間弓手も役に立たず、鉄砲も撃てず、河原の石を投げて防戦する | 2018年1月12日• 姉川の戦いの点と線 歴史上の合戦を見ていく上で重要になるのが、その戦に 関わった人と理由です |
^^ 姉川の戦いに関わった人たち(点) 姉川の戦いってどんな合戦だったのかを解説する前に、 主要な登場人物と人数を挙げておきましょう | 姉川の戦いのその後 姉川の戦いに敗れた朝倉氏・浅井氏、そして戦いに勝った織田信長は、その後どうなったのでしょうか |
これに浅井長政の兵5,000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13,000となった。
さらにこのとき家康は旗本の 榊原康政、 本多広孝に、姉川を西へ迂回して朝倉軍の右へまわるように命じた。
外交の拠点として栄えた太宰府に位置する「九州国立博物館」の魅力をご紹介します。
しかし浅井氏はこの戦い以降およそ4年間、信長と争うことになり、最終的には敗れ自害。
この約束を反故にする行為を知り、長政は姻戚関係にある信長を支援するか、親しく付き合っている朝倉家を支援するか、難しい判断を迫られることとなりました。
しかも、対浅井家の最前線です。
六角義氏 姉川の戦いが起きた理由とは?(線) 登場人物を見ていただいたので、次に、姉川の戦いが起きた理由を見ていきましょう。
・信長と朝倉氏の「金ヶ崎の戦い」で、浅井長政は信長を裏切り、朝倉氏側についた。
織田の勢力が強くなりすぎて、内輪揉めしている場合ではなくなったわけです。
信長公記の「千数百」という数字の方が案外近いかもしれない。
82信長は、長政の居城「小谷城」を目指し、 2万の軍勢で向かいます | 信長は薄情でワガママ、秀吉は戦下手、家康は信長を裏切ろうとするなどチームワークがなってないですが、その一方で長政は、領民から慕われる名君で、さらに戦上手な名将として描かれています |
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信長は城下を焼くなど挑発したが、長政は険しい小谷にこもって出ようとはしなかった | 1996年、中央大学文学部史学科国史学専攻卒業後、同大学院博士前期課程を修了 |
教科書でも必出で、「元亀元(1570)年 姉川の戦い 織田信長・徳川家康の連合軍が朝倉義景・浅井長政の連合軍を破る」と丸暗記させられます | その朝倉勢が本陣としたのが三田村城 三田村氏館跡 で、現在は伝正寺となっており、その周囲に残る土塁が往時を偲ばせます |
午前6時ごろまず下流の朝倉勢と徳川勢との間で戦いが始まった | 刀剣・日本刀や甲冑(鎧兜)など、貴重な美術品を見に刀剣コレクションに出かけよう! 「岐阜関ケ原古戦場記念館」の体験コーナーや展示内容など、施設の魅力をご紹介します |
一気に小谷を落とすことの困難さを悟った信長は虎御前から現在の浅井町の中央を流れる姉川の南側までいったん退き、浅井の前線基地の横山城を囲み、朝倉・浅井勢を誘い出そうとした | 第2の噓 |