ご注意• 先頭の国光がトップを譲らず、そのすぐ後方向かって左側に黒沢が位置し、その右側 アウト側 に北野が 併走状態で並んでいる。
メカニックを目指す俺にはお金以外にも4ストロークエンジンを学びたいという気持ちが強かった。
結果鎮火まで火は消されず、黒煙はレース中上がり、マシンはその黒煙の中を通過 するという異様な光景を呈した | しかし、観客席側本コース付近ではもっと酷い事故が発生していた |
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それから一年も経たずにこととなる | そんなに寒い思いをしないで帰れる」と言っていた |
1974年6月の富士グランチャンピオン・シリーズ第2戦で、マシン4台が炎上し、ふたりのレーシングドライバーが死亡する事故が発生した | それを聞いていた俺を含め他のクラブ員たちも「そうだな」「おれもロードレースやってみたい」と言うことになった |
そして命を落とした鈴木、風戸も | らしくない光景だったが、これには理由があった |
リスナー仲間が、映像の解析から東京・西早稲田のアパートを突き止めた | 不通過の際には今でいうペナルティストップが課せられた |
まさに全面改修であるからこそ、1年5か月もの期間を要したのだろう | 前方が中野車、後方が巻き込まれた車の炎 |
マシンの通過による風圧と、炎上する現場の酷暑に疲労困憊の北野は転倒したが、上半身裸になるとピットまで走って行き、ようやくマシンを降りた黒沢の胸ぐらを掴むや「テメー、俺を殺す気か!」と言うが早く殴りかかる場面も | さすがに挙動が不安定となりスピンを起こしてしまい、操縦不能に陥りながらバンク上方に駆け上がってくる |