天海 説。 江戸時代の怪僧天海僧正は明智光秀なのか ~2人の筆跡を比べてみた~

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隠居の身とはいえ、家康がただの乳母にそう簡単に会うなど考えられないし、増してやその訴えを素直に聞くなど、あり得ないことである 意味深な「東照公遺訓」 光秀が天海だったら、すべての謎が解ける! 「光秀=天海説」の大筋は以下のとおりです(戦国ファンの皆さまへ
明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れ、逃走中に死んだとされています つまり・・・本当は光秀を討っていなかったのではいか? そう思うのです
光秀の家臣の娘 天下統一を果たした光秀の家臣であった斎藤利光の娘「お福」は、天海の希望により、家光の乳母となった ちなみに「東照宮」は現在も全国に多くありますが、家康が死を目前に、天海と金地院崇伝(こんちいんすうでん)、本多正純を呼び、次のように遺言したことにより、建立されたのが始まりと伝えられています
などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣・・徳川忠長などの赦免を願い出ている お福は光秀の縁者で、家光は家康とお福の間にできた子であるといわれる
明智光秀とは 明智氏に生まれた光秀だが、父親は明智光綱・明智光国・明智頼明など様々な説があり、名前すら伝わらない程の身分の低い人物だったとも言われている これはが特赦を願い出る慣例のもととなったという
息子の乳母に、伯父を殺した光秀の縁戚であるお福を簡単に迎えるはずがありません 天海は陰陽道や風水を熟知しており、上野にある寛永寺の山名を東の比叡山を意味する東叡山と名づけ、京の比叡山のように『鬼門封じ』の役割を担わせました
「陸奥国の会津」出身という説もありますが、前半生は全くと言ってよいほど不明 戦後には明智光秀の子孫と称する明智滝朗が流布している
廟所 [ ]• その間には、室・(洗礼名:)、嫡男・(十五郎)、室がいる 数々の逸話・エピソードが残されている名将
9 天海が亡くなったときの布施帳(蔵)によると、光秀と親交のあった、光秀のである、光秀が会を開いた威徳院から香典が届けられたのに対し、天海出身説によると天海にゆかりがあるといわれる、黒川稲荷堂からは香典が届けられなかった 中洞にも光秀のものとされる墓があります
またいつか「明智光秀=天海説」はテレビでやるかもしれません 文字も多いですし、今回は軽めの記事なので、解説は差し控えます
家康が初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく前例のないことなので、側近の者たちも「いったい、これはどうしたことであろう」と目を見張ったとある 第三章は秋山氏による神聖幾何学概論
そもそも 家光の母親・江(ごう)は、織田信長の妹・お市の娘 もともと、の娘玉子は絶世の美女と言われる
僧として天台宗を学び、 天正16年(1588年)に「星野山」という武蔵国の寺に移ってから「天海」という名に変わったのだそうです 徳川家康の参謀・天海の正体は光秀だったというものだ
光秀と天海、二人の前半生がともに謎に包まれているところが、光秀=天海説の土壌になったともいえる 「西教寺」には、そのとき「秀満」が残していった「馬の鞍」が残されています
長きにわたって光秀・天海同一人物説が唱えられ、小説の材にもなってきたのは、やはりそれだけ魅力のある俗説だからだろう は12種の生年説を比較検討した上で、天文5年説を妥当としている
そしてそうした大規模な命令を出せるほど高い立場にいる人物として、天海はその候補に入るでしょう もし、天海がぜひお福を家光の乳母にと望んだのであれば、公募でお福が選ばれたこと、またお福が離婚までしてこれに応えたこともつじつまが合うのです
さて、この そして「南光坊天海」とは、「徳川家康」に仕えた参謀です
天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、主要な街道と「の」の字型の堀とが交差点であり、城門と見張所がある要所に、平将門を祀った神社や塚を設置したとされる 春日局の肖像画 昔の時代の「反逆者」の血筋の者が乳母という役目に抜擢されるのは興味深いですよね
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